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批判と実行/日本の政治センス [コメントor短評]

 少しがっかりしている。
 菅直人首相のことである。
 あれほど舌鋒鋭くかつての与党自民党政権を批判してきた菅直人氏の曖昧な国会答弁には正直苛立つ。
 この人のどこに「実行」への強い意志があるというのか?
 この人のどこに「説得」のための熱い意欲があるというのか?

 このことは、すぐれた批判者はかならずしもけっしてすぐれたリーダーではない、ということの証左であるかのように思われる。彼は野党のリーダー、批判者のリーダーであって、実行者のよきリーダーとは言えない。
 いや、まだその地位になれていないから、その使命に燃えるべき時を待っているから、などなど、いくらでも理由は言える。けれど、今後どれだけ待つにしろ、この人にはほとんど期待がもでない。

 なぜなら、この人には政治センスがないことが明らかだからである。

 一国の宰相には政治センスが要求される。
 それは感覚的にある種の見通しを立てることができる能力である。政治的洞察力と言ってもよい。その見通しに従って、政策立案を指示しあるいは国家間の交渉に臨む準備をさせる。

 そのようなセンスのなさは、あのいきなりの消費税発言にきわめて明確に表れている。

 けれども、今の日本に政治センス豊かな宰相候補がいるかというと、どこを見渡しても存在しない。

 旧政権を担った自民党の小泉氏にしても安倍氏にしても福田氏にしても、そのような政治的センスは皆無と言ってよかった。自民党政権最後の宰相麻生太郎氏に至っては政治オンチもここまで来たか!と嘆息させるほどのものであった。こうした連中が自民党政権の中心いたのだから、日本が落ちぶれていくのは当然である。

 日本国民としては民主党政権の選択は、そのような落ちぶれていく日本に対する強い危機意識を大きな動機として、彼ら民主党に起死回生の希望を託したはずであった。

 その希望も裏切られた。
 鳩山前首相にしても菅現首相にしても、政治オンチは拭えない。

 なぜこれほどの政治オンチばかりになってしまったのか?

 要員は二つ。

 ひとつは対米従属体質の政治・経済。
 東西冷戦の尻馬に乗って、アメリカ合衆国一辺倒の無策外交。アメリカだよりの経済・社会全体の対米依存体質を抜け出る努力をまったくしてこなかったこと。抜け出るどころかさらに対米依存を深めたのがあの小泉純一郎氏である。日本にアメリカ本国と同じような自由放任社会を成立させ、日米社会の画一的一体化をはかろうとしたことに、如実に表れている。
 このため、対中外交、対アジア外交はぼろぼろである。
 大国アメリカ合衆国と、大国中国、大国インド、大国ロシアはあきらかにそれぞれの多様な外交戦略、世界戦略をもって日本をてんてこ舞いさせ、あまつさえ足蹴にしようとまでしているのに対して、いまだに無策である。策を立てる必要さえ感じていないらしい。世界外交戦略のない日本に太刀打ちできるはずがない。

 その無策と無自覚の長い年月が、日本の政治家をこれほどまでに外交オンチにしてしまった。
 
 もうひとつは官僚依存政治。
 政治の最も枢要な部分をすべて官僚に握られ、官僚のなすがまま、官僚の言うがまま、日本の政治を官僚に丸投げしてきたことのつけである。
 日本の政治家にはまともな行政立案能力も行政実行能力も育たなかった。
 官僚がそれらのすべてをやって来たからである。
 官僚は政治家の無為無策をいいこいとに、したい放題であった。

 日本の政治家は国際戦略においても、、内政においても、激しくたたかれ、もまれ、苦しみを味わわされ、それによって強くしたたかに鍛え上げられるということがまるでなかった。

 それが今回の中国による「レアアース」輸出禁止に対して日本がまったく無防備であったことに表れている。
 安全保障は軍事的な防衛力と言うより、優れた外交能力であり、またこのような経済封鎖に対する経済的・国際的抵抗力である。一国の経済的な報復に足許を掬われることの少ない国際関係の構築への努力をまるで怠けていたことにつきる。

 ひとことで言うなら、それらは一種の「甘ったれ外交」である。
 そして国民へは「甘ったれ内政」の繰り返し。
 つまりこの二つは、日本の政治の「甘ったれ体質」の二本柱。

 菅直人氏の政治センスのなさを批判したが、じゃあ、菅直人氏の代わりにだれがいるというのか? どこに政治センスの優れたリーダーが、あるいはリーダー候補が見つけ出せるのか? まったくお寒い現状である。

 このような政治の貧困状況はこれからもしばらくは続くであろう。
 日本の政治家がその政治センスをきびしく鍛えあげられる時まで。あるいはまた、政治センスを鍛えられ、磨きあげられた人物が日本にも複数育ち、その人物たちが日本をリードする時が来るまで、である。
 それまでの間、日本国民は外交的な不利益、経済的な困窮と耐乏の生活をしのばねばならないようである。

 これほどの甘ったれの無策で戦後の65年間をやってこれたのは、ただ単に日本が幸運であったと言うに過ぎない。日本が東西冷戦の中で偶然好位置にいられたからに過ぎない。

 その東西冷戦が終わってもう二十年を過ぎたというのに、日本は相も変わらずかつての幸運な日々の夢を追っているかのようである。あれはたまたまの幸運、つまり「棚からぼた餅」的幸運であったことを、肝に銘ずる必要がある。

 独り立ちした大人の日本国をここに自律的に経営するためには、厳しく鍛え抜かれた国家経営のセンスが不可欠である。今からでもそのような人物群を日本人は全員で意識的に育てる努力をしなければならない。今後これまでのような幸運には恵まれないまま、日本が世界に伍してやっていくためには、そのような人たちが育つまでの間、苦しい日々を堪え忍ぶほかあるまい。

ねじれていること [コメントor短評]

 参議院選挙が始まった。

 民主党参議院議員は単独過半数の議席獲得はむずかしいようである。
 国民新党を加えても、過半数割れになる可能性もあるという。

 となると、自民党政権下の「ねじれ国会」と逆の事態となる。

 じつは、現在の日本の政治状況では、日本の国会は、衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ」状態が最もふさわしい。

 「ねじれ」は、過半数政党の権力の独善を正す役割を担えるからである。「独善」と言ったが、旧自民党政権では「数の暴力」でさえあった。特に小泉政権下の独善と数の暴力は目に余るもがあったから、さきの「政権選択選挙」で、自民党の惨敗を招いたのである。

 民主主義で最も避けなければならないのが、この「数の暴力」であり、その多数を背景にした政権党の「独善」である。国会で少数派とはいえ、ある程度の議席を獲得している政党の主張は、「数の暴力」で押しつぶしてはならないはずである。少数ながらもそのような国民の支持を得ているという事実は重い。

 前にもどこかで書いたように、民主主義の最大の美点は、「少数者の尊重」にこそ最もよく現れるからである。国政にしろ地方行政にしろ、議決が多数派によって構成されるのは、じつは絶対的な要件ではない。絶対的な要件となるためには、全会一致が原則となるはずである。

 なぜ全会一致ではなく、多数の支持が議決のための要件となるのかといえば、それは国会の議決が「時間との競争」である場合がほとんどだからである。その時間に対する便宜のために、とりあえずの議決を求められるからこそ、当面、その多数の支持をもって、国会の議決となすのである。
 
 その議決は常に、「とりあえず」の「便宜」のためであるから、その議決の後に国会と国民がなさなければならないのは、よりいっそう全会一致の法案へと、政策へと、近づけていく共同の努力である。
 それは時に相互の創意工夫による善意の妥協であり、あるいはまた全く新しい政策の検討・立案であるけれども、やはりここでも避けなければならないのは多数派による一方的な説得である。「説得」という場合、多数派が少数派に説得されることも当然行われなければならない。多数派が説得する、ことばかりが優先されるのであれば、それは結局「数の暴力」と変わりがない。札束の力を借りて「説得」したのだとすれば、それは人々のよりよく生きるための善意を破壊する。

 官僚機構の最も悪質なのは、彼らが国民や地域住民に説得されることを自らに許さないからである。彼らの話し合いは常に官が民を説得することしかない。官僚が忌み嫌われるのは、そこに独善的な権力の横暴があるからである。彼らの説得の手にあまれば、金のばらまきが始まる。そうして、官僚たちは日本人の心を荒廃へと導いてきた。

 「もういい加減にしてくれ!」

 それが日本人の大多数の官僚への怨嗟の声である。

 自民党政権もこの官僚たちと同じであった。まったく同じ体質をもって、国民に向き合っていた。
 それでも、自民党が長く政権を担って来られたのは、自民党の政策が国民のためにある?かも知れない、と思っている、あるいは思うとしている国民が多数を占めていたからである。そして、その国民の思い、願いに乗じたのが小泉という大詐欺師であった。

 日本人の心をここまで荒廃させた責任はこの自民党と官僚たちがとらねばならない。
 
 そうして、我々日本人は、政権を民主党にゆだねた。

 国民の大多数は自民党政権にはもうこりごりだから、民主党政権はしばらく続くだろう。だが、その「しばらく」が問題である。その「しばらく」の間に、権力の独善と数の暴力が始まってはかなわない。いや、もう始まりかけている。民主党は数に頼んで、自党の主張をごり押ししたい、強力に突き進めたい、そう願っているから、首相の顔が菅直人氏にすげかわって、民主党支持率が一気に急回復すると、なにもかもほっぽり出して、参議院議員選挙に突入してしまったのである。

 参議院のチェック能力を封ずるために、参議院議員の多数を獲得したい。

 その思惑が、小沢一郎氏のねらいであり、民主党執行部のもくろみである。

 参議院はかつて「良識の府」であると本気で信じられてきた。

 参議院が「良識の府」であり、衆議院の独善と横暴に対する抑制機能を全うするためには、少なくとも、衆議院の多数派とは異なる政党が、参議院の多数を占める必要がある。それによって、少数派の意見が尊重されるための担保となるはずである。

 いや、もっと理想を言えば、参議院は「良識の府」として再構成されるべきである。政党のシェアを認めないような制度とすべきであろう。そのためのよい方法を工夫すべきである。定数100、任期10年、5年ごと半数改選などというように。政党の関与を一切認めない選挙として。

希望 [コメントor短評]

 希望、というのは、いったいどのように紡(つむ)ぎ出され、どのように保持され、あるいは増殖し、あるいは潰(つい)えるのか?

 希望はそれが漠然としたものである時、漠然と人の胸を温め、人の目に光を与え、顔を明るくするが、いつ知らぬ間に、どこかへと雲散霧消する。

 そのような漠としものではない希望を、我々はこの胸に持ちたい。

 希望には、二つある。

 一つは個人としての未来を語る希望。
 個人としての未来であるから、それはつねに、その個人の知恵と努力の集中にかかっている。その上で、チャンスや巡り合わせと言った、運不運もかかわる。希望について言えば、だれもがそう希望することについては、自由である。希望において未来は開かれている、と言うべきであろう。
 だが、その希望に開かれている未来が、じっさいにだれの上に等しなみに、その実現をもたらすかというと、多くの実例が示すように、それはない。偶然や偶発的な事故がその実現を阻んだり、促進したりする。

 だから「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」とか、「人生塞翁が馬」と言われもする。
「有為転変(ういてんぺん)」とは人の常だが、その「有為転変」がゆえに、ある人には幸をもたらし、他の人には不幸を呼び込む。

 それゆえ、人は希望を捨てずに生きることができる。今マイナスに働いている人生の歯車が、いつか大きく逆回転して、プラスに働くことを信じることができる。信じる心さえくたびれさせなければ、希望を持っていつまでも生き続けられる。それが人間というものである。
 だが、信じるということは極めてエネルギー消費の激しい行為である。
 人生を生きるエネルギーの大半がそのために費やされると言ってもよい。

 個人の希望についてはかくのごとしである。

 だが、社会の希望についてはどうだろうか?
 一つの社会がほぼ全体で未来に描く希望である。
 一つの社会。たとえば、一つの「国」を考えて見よう。

 一つの「国」が「国」としての「希望」を持つとはどういうことであろうか?

 国家は希望を持たない。
 国家はひとつの領域とそこに住む人々を統治する支配権力組織であるから、それは実際的で即時的な存在である。国家が統治のために「希望」を標榜する時、その希望は「幻影」とか、「幻想」とかの言葉で言い換えることができる。「ビジョン」もまたしかりである。
 なぜなら国家というものは未来にその生存権をもたないからである。ただ、たった今、そこに現存するばかりである。

 「希望」といい、「ビジョン」というものは、人間に固有の生産行為である。
 その人々が何物にも強制的に束縛されることなく、抑圧されることなく、自由に発想し、自由に討議した結果、共有される未来への想念、それがその社会における人々の「共同の希望」、「共同のビジョン」というものである。そしてその「共同の希望」、「共有されるビジョン」によって承認される国民統治のありさま全体が、われわれの希求する「国」というものである。「国」はその内部に「国家」という統治機構を抱え込んでいる。言葉を言い換えれば、「国家」は「国」というものの現実即応的作業機構である。
 「国家」に「希望」がないのはそのためである。
 つまり、「国家」には「希望」を有する資格も権限もないのである。

 共同の希望を承認し合った民衆の共同の付託を得て、国家はそこに存立する。

 当然そこには、その共同に加わらない者も、半数に満たない少数者として存在する。
 「希望」はそれらの少数派の人間たちにも未来が開かれるべく工夫されていなければならない。
 「民主主義」とは、けっして少数派を切り捨てることではないからである。

 けれども、多数派の共同のビジョンでありつつ、なお少数派への配慮を見失わないということは、至難のことである。それは少数派に対して、「やむをえなかった、申し訳ない」ですまされることではない。民主主義では利害の対立する相手に謝るなどということはほとんど不要である。
 「ごめんね」と言いつつ、相手を切り捨てるなんて、茶番以外の何ものでもない。

 少数派に謝るくらいなら、激しい弾圧の方が、ひどい苦しみをもたらしはするが、それによって生ずる擾乱と反抗の混沌の中から、、少数派にも意味のある新しい未来を引き寄せる力にはなろう。現代の民主主義では弾圧に手を貸した方が、その時点でほとんど負けているからである。

 言葉だけの謝罪について、国家の統治機構は反応し得ない。
 国家の統治機構が作業をなすためには、「謝罪」以上のものが要求される。実際的行動のない「謝罪」など、しないほうがよい。

 そして、「国」は分裂する。
 国民(くにたみ)が分裂するからである。

 沖縄の基地問題で、ぼくが考えたことはこれである。

 我々の国民(くにたみ)の「希望」とは何か。
 我々国民(くにたみ)が、共有できる我々の「国」のビジョンとは何か。

 今こそ、日本という「国」の未来に向かって真剣で深い討議が日本全体に広まり、深化することが望まれる。喫緊の課題と言うべきである。

 そのような未来へのビジョン、未来の日本への希望の討議の大きな広がりの中から、世界平和も、反核も、日本の安全保障も、新しい生命を吹きこまれて、我々の「国家」を実りある統治機構へと変革することができるはずである。

「抑止力」とはなにか?を考えなければならない [コメントor短評]

 鳩山首相が、沖縄アメリカ海軍海兵隊を「抑止力」の観点から「欠かせない」と発言したことには、正直驚かされた。

 当然「抑止力」についての再検討がベースにあって、沖縄のアメリカ合衆国軍基地問題が検討されていると考えるのが普通だからである。場合によっては、日米安全保障条約の見直しに踏み込むことさえありうる展開なのではなかったろうか?

 今回の鳩山首相の発言があんまりにもくだらないので、がっかりを通りこして、あきれた。

 という激しい失望は、沖縄の基地問題を我がことのごとく、真剣に受け止めて考えようとする人たちはもとより、沖縄の基地問題をひとごとのように考えているいくばくかの日本人にも、同様であったろう。

 正直言って恥ずかしいのである。

 これではただの「お坊ちゃま宰相」というほかない。右も左も分からない、温室育ち、ということである。

 つまりは、鳩山由紀夫という人間の問題なのかも知れない、ということである。

 だいたいにおいて、民主党内で、アメリカ合衆国軍が主張する「抑止力」について、真剣に分析、検討された形跡がない。「抑止力」から崩して行かなければ、沖縄だけでなく日本駐留の米軍の存在を、より小さなものへとしてゆく力は生まれない。

 果たして「抑止力」とは何なのか?

 日本の安全保障のための抑止力がひとつ。
 もうひとつは、極東アジアの平和のために、軍事的脅威に対して牽制するという抑止力である。

 この二つの抑止力のうち、最初に、日本駐留のアメリカ合衆国軍が、日本の安全保障のためにどれだけの力を有しているかを考えて見るべきである。
 特に沖縄駐留のアメリカ合衆国海軍海兵隊が、どのような効果的な機能を果たしているか? を問わねばならない。
 そして、第二に、その効果にかかる費用、つまり費用対効果を検討しなければならない。このとき「費用」には沖縄県民の危険負担も、その精神的な苦痛も含まれる。

 われわれ日本人の犠牲や苦しみに見合うだけの「抑止力」があるのかどうか? なのである。

 なぜ、われわれ日本人がたかだか沖縄駐留のアメリカ合衆国海軍海兵隊のために、これほどの苦しみを受けなければならないのか?

 その明解な回答があってはじめて、アメリカ合衆国軍は沖縄に駐留展開できるのである。「抑止力」とのからみで検証しなければならないのは、ひとり沖縄の各基地だけではない、三沢も岩国も厚木も、そして横田もである。

 アジアに対する「抑止力」なら、沖縄に展開する必要は全くない。グアムでもサイパンでもテニアンでも、、ほとんど問題がないはずである。常時組織的な訓練ができなければいけないというのなら、南太平洋にはいくつも候補地があるはずである。極東アジアの安寧のためという名目で、沖縄で軍事訓練が行われることは、まったくもって願い下げである。すでに極東アジアの脅威は、組織的な軍事行動ではなく、ごく限られたグループによる「テロ」へと移っている。その「テロ」には「核テロ」も含まれるが、沖縄駐留のアメリカ合衆国海軍海兵隊にどんな即応能力、どんな抑止力が機能できるのか? まったくもって対応不可能である。

 「抑止力」の再検討がすすめば、日米安全保障条約の見直しにまですすむはずである。

 われわれ日本人は、これまで、何が真実で、何が本当に必要であるかについて、旧自民党政権下でまった目隠しをされてきた。アメリカ合衆国の言い分だけを鵜呑みにさせられてきた。それが「抑止力」に必須だと言われれば、「はいはい、ごもっとも」と言いなりであった。つまり、日本の自衛隊にはシビリアンコントロールと言いながら、こと沖縄駐留米軍について、アメリカ合衆国参謀本部の言いなりであったというわけである。

 ここにあるのは、「軍事優先主義」である。

 アメリカ合衆国が自国の国民に対して「軍事優先主義」を主張し遂行することは、他国の国民に危害や損害を与えない限り、アメリカ合衆国さん、ご勝手に、である。

 だが、われわれ日本人が、これほどの苦悩やストレスに耐えてまで、アメリカ合衆国の「軍事優先主義」を受け入れるためのどんな合理的な理由もないはずである。日本がアメリカ合衆国占領下にあるのならともかく、独立国である以上、理不尽きわまりない。

 われわれ日本人は、1952年再独立以来えんえんと、アメリカ合衆国の主張する「抑止力」、「核の傘」の下に安住し、いつまでもアメリカ合衆国の軍事力におんぶにだっこでいられると、惰眠をむさぼってきた。惰眠の影でひとり沖縄県民の苦悩を放置し、またその他の日本各地のアメリカ合衆国軍事基地周辺住民の苦痛に有効な手立てをうちもせず、わがこととして、深刻に考えようとしなかった。

 そのつけが、いま来ているのである。

 われわれ日本人は、「抑止力」の名の下にどれほどの苦しみを、どれほどの犠牲を強いられてきたかを、いまここで見直す必要がある。

 アメリカ合衆国が主張する「抑止力」なるものがいかに空手形であるのか、いかに効力のないものか、その検討の過程で明らかになるであろう。
 そしてそのような絵に描いた餅のような仮定の「抑止力」をベースにした、現行の日米安全保障条約の見直しも、やがて議題に上るはずである。

いよいよ日米安保廃棄か? [コメントor短評]

 沖縄普天間基地移設問題が暗礁に乗り上げかかっている。

 少なくとも現時点で、だれもこの問題が5月末までにスムーズに解決するとは思っていない。

 アメリカ合衆国の思い上がりが修正されていないからである。

 アメリカ合衆国が日本の平和を担保しているのだと、アメリカ合衆国は本気で信じているというのだろうか? 沖縄にアメリカ合衆国軍が保有する戦力が、本当に、具体的に実質的に、日本の防衛に必須のものとして役立っていると強弁するのだろうか? 

 沖縄にあるアメリカ合衆国軍は、いわば「張り子の虎」である。

 アメリカ合衆国本土に保有する軍事力をバックにして、いかにも強そうに振る舞っているだけである。沖縄のアメリカ合衆国軍が、たとえば、中国の軍事力にまともに向き合えるかと言えば、きわめて心許ない。いや、そのような非常事態に有効に対応できるはずがない。さらにまた、アメリカ合衆国本土のあるいはハワイの軍事力がまともに行動を起こしてくれるとは言い難い。アメリカ合衆国本土の安全を最優先するからである。アメリカ合衆国大統領が自らの支持者であるアメリカ合衆国民を犠牲にするはずがないからである。北朝鮮軍にしてもそうである。しかも北朝鮮には「格テロ」という奥の手がある。「格テロ」行使に対して、沖縄駐留アメリカ合衆国軍には何の効果的な抑止力をも持たない。

 沖縄アメリカ合衆国軍の侵略・攻撃抑止力は、日本人の錯覚であるというだけでなく、いや、あるいはそれ以上に、アメリカ合衆国政府および国民の思い上がりがもたらす錯覚である。そのような錯覚を背景に、沖縄でのアメリカ合衆国軍および将兵の心の振る舞いは横暴を極める。特に軍事行動の先兵である海兵隊にその横暴を許す思い上がりは強い。

 その横暴さを容認してきたのが、旧政権とその旧政権党であった自由民主党である。

 沖縄返還の最初から、アメリカ合衆国と日本との関係は不当なものであった。
 日本国および日本国民はアメリカ合衆国およびアメリカ合衆国軍に対して最初から劣位に置かれていた。日本の被占領下の彼我の関係をそのまま引きずり持ち込んだのが、日米安全保障条約だからである。日本の占領は名目上連合国によるものであったが、その実質はアメリカ合衆国単独の占領であった。GHQ司令官がアメリカ合衆国軍のマッカーサーであったことが、その証拠となる好例である。
 けれども、いやだからこそ、彼らアメリカ合衆国軍は「進駐軍」と呼ばれた。日本に進駐してきているのは、ひとりアメリカ合衆国軍のみであったから、その事実を表面上はうまくごまかす用語であった。けれども日本人のだれもが「進駐軍」イコール「アメリカ合衆国軍」であると心の底まで知っていた。こどもたちは「進駐軍将兵」の乗ったジープに「ギブミーチョコレット」と叫んだ。「進駐軍将兵」を構成するのがアメリカ合衆国人であると知っていたからである。

 こうして、「被占領下の日本」の意識を変えることなく、被占領国の立場を堅持したまま、日本は形式上再独立を果たし、同時に日米安全保障条約を結んだ。つまり、これは日本国がアメリカ合衆国の属国であることを国際的に認めた条約であった。「属国」が言い過ぎなら、「衛星国」と呼んでもよい。

 そして、「日本はアメリカ合衆国がくしゃみをしたら風邪を引く」と言われるほどだらしのない国となった。
 いや、言われるだけならまだしも、自分でそう公言してはばからなかった。自由民主党政権の首魁、吉田茂の経済優先主義がもたらした結果である。日本および日本国民は、経済のために、アメリカ合衆国に魂を売ったのである。そして、売り続けてきた。それが旧自民党政権のわれわれ国民に与えた最大のダメッジである。最大の罪過である。最大の損失である。

 自民党や民主党の多くの政治家が日本独自の「日本国憲法」制定を叫ぶ。
 いまの日本国憲法がアメリカ合衆国による「押しつけ憲法」であると主張する。この現憲法を堅持しているかぎり、日本国は真に独立したとは言い難い、というのである。

 憲法は作り直しても、日米安全保障条約はそのまま、というのはどんな神経の持ち主に言えることであろうか?

 沖縄のアメリカ合衆国軍をはじめ、日本国内に駐留するすべてのアメリカ合衆国軍の排除こそ、日本の心の独立ためには、喫緊の要諦である。

 沖縄ではいまだに「戦後」は終わっていない。
 日米安全保障条約もまた、日本の被占領状態を半永久的に固定化した、「戦後」の産物である。

 日本国憲法の改定を言う前に、なすべきことは、この二つの「戦後」をまず終わらせることである。

 それからである。
 もし、日本が日本の心の独立のために、それがぜひ必要であるというのなら、この二つの戦後を終わらせて後、はじめて日本国憲法の改定ないし、新たな制定が企図されればよい。

 われわれ日本人がいっそう平和的な憲法を自ら選択して制定するというのなら、それこそが、世界平和に寄与する日本の再出発になるであろう。もちろん、憲法九条の精神はけっして無為にはしないことが前提である。むしろ、この精神をよりいっそう強化し、よりいっそう民主的で、よりいっそう人権に気を配った憲法へと作り直すなら、ぼくも大賛成である。

 いずれにしても、事態はそこまで来ている。
 「日米安全保障条約破棄」というところまで。
 避けがたく。

 あるいはそれが、鳩山首相の狙いであるのかも知れないではないか。
 もしそうなら、ぼくは鳩山首相を支持する。

新党乱立?するだけ? [コメントor短評]

 自民党の与謝野馨氏らが自民党を離党して、新たに政党を立ち上げるという。

 すでに自民党を離脱して結成された新党は「みんなの党」などがあり、現在与党の一員となっている「国民新党」もまた、自民党離党(あるいは追放?)組である。

 いや、さかのぼれば、現民主党の主要メンバーの多くが自民党離党組であった。小沢幹事長からしてそうである。それに旧社会党一派が合流して、右寄りなのか左寄りなのか、あるいはそのどちらの側にも一くるみにできないのか、とにかくなんともはや、わけの分からない政党を形成している。
 ぼくら団塊の世代からは、民主党に組み込まれている、旧社会党右派に一縷の望みを託してきたわけだけれども、それもここへ来て彼らが「旧社会党右派」なのではなく、単に「右派」に成り下がりつつあるのを、目の当たりにする。

 それは、労働運動の右傾化と軌を一にしている。

 労働運動が真に労働者の見方ではなかったことが、一昨年、昨年と大量の労働難民が生まれて、明らかになった。今年の春闘もまた、労働組合が労働組合員の権利と所得護衛のための存在であって、決して多数の弱者のための存在ではないことをさらにいっそう明らかにした。

 つまり、このような日本の現状にあっては、今後いくら新党が新たに結党されても、それはいずれも日本の社会の現状を変革することのできない、旧態依然の保守系の政党でしかないということである。

 「保守系」、
 経済自由主義を標榜し、そのために国家の介入を最小限にしようという発想を基盤にする。
 そのために彼らがうたうのは「機会の平等」である。
 だれもが対等に資本主義市場に新たに参入し、一つの差別もなく、すべての市場において、対等に競争を行い得る、というのが、こうした保守主義の立場である。
 社会において、機会の平等が用意されているのであるから、後は個々の努力と工夫にかかっている。能力のある者が、その創意工夫の上に幸運が働くことによって、個人にしろ、企業にしろ、その市場競争に打ち勝ってゆく。優勝劣敗、弱肉強食の社会が、生物一般のならいであるとうそぶく。

 しかしよく考えてみるとよい。
 生物世界では、確かに弱肉強食は弱肉強食であるけれども、乾期の明けたアフリカサバンナでは、ライオンもリカオンも、ガゼルもインパラも互いに倒し倒されることよりもまずその渇きを癒すためにいっせいに喉を潤す。一種の休戦である。あるいは、競争を最初から自ら避けたか、競争の果てに追われたか、それらのいずれかにより、環境のいっそう苛烈なるエリアにその生存の根拠地を移住させる生き方もある。日本ではニホンカモシカがその好例である。競争を避けることにおいて積極的なのは植物である。植物には環境劣悪の極地や高山に移住して種を保存、繁栄させる種も少なからず存在するからである。

 つまり、弱肉強食、優勝劣敗と、一つの種の中で過酷なまた非情な生存競争を繰り広げる愚行をやらかしているのは、生物界ではただ人間の種だけである。種名、ホモ・サピエンス・リンネ(リンネは命名者の名であるから省略可である)という。命名者カール・フォン・リンネ(1707~1778)の傲岸な性格から、新人類たる人間は「ホモ属」の「賢い者」と名づけられた。ちなみに、homo は、ラテン語で「ひと」の意味である。その種名とは裏腹に、何とも知恵のない種が人類である。

 話を戻そう。

 「保守系」にしろ右派にしろ、それはいわば傾向を意味するだけである。
 日本の場合は、「自由主義」も本来の自由主義というより「自由主義的」と言うに過ぎない。
 それは本来の主義のように信念に貫かれていない。それを標榜する人間の生き方とも深く絡まっていないから、表面を彩る飾りのようなものである。

 平和主義、というのなら、それはほんとうに「主義」でなければならない。つまり、すべての政策、主張がそれによって貫かれ、統合されていなければならないはずである。日米安全保障条約のような軍事同盟は当然、平和主義の理念によって根本的に改められるべく、アメリカ合衆国との厳しい交渉が交わされなければならないはずである。すべての政策、方針が、平和主義の理念とビジョンによってくっきりと照らし出されてないなければならないのである。

 平等主義の理念もそうである。
 平等という以上、それは機会の平等の保障だけではまったく不足である。結果の平等、あるいは分配における平等といわれる、すべての人の文化的生存の平等が保障されていなければならない。そのような理念から照らし出された現状が何を浮き彫りにするか。労働のいちじるしい不平等である。ハンディキャップのある人や公害・薬害被害者たちのいちじるしい差別である。

 これらの問題を根本的に正すだけの理念が、保守系の政党にあるかというと、はなはだ心もとない。

 となると、左派系の政党はどうなのか、気になるところである。
 日本の左派と言われる政党にそのような力があるかというと、こちらも不安でいっぱいである。たとえば日本の左派政党の筆頭といえば日本共産党である。
 だが、これほどに日本の労働者たちが経営という名のもとに追いつめられてきているのに、なぜ日本共産党の支持が伸びないのか? ぼくには不思議である。少なくとも若い人たちの間に共産党熱がどうして高まり、広まらないのであろうか? プロレタリア文学の最高傑作の一つと言われる小林多喜二の『蟹工船』の昨今の突然の流行も、ただそれだけに終わっている。結局日本共産党が真に日本のプロレタリアのための政党ではなかった、ということであろうか。若い無職の労働者を初めとする多くの労働者たちの不安や不満、悲哀や失望をよく受けとめ、あるいは社会的弱者の痛みと願いをよく汲み取り、一つのビジョンへと集約できない政党では、日本を変える力にならなと言うことであろう。そのことは、社会民主党にも言える。

 「主義」というもののあるべき姿から、政党というものを考え直さねばなるまい。それは共産主義の日本共産党にしろ、保守主義の、あるいは自由主義の政党にしろ同じである。あるいは新しい理念や主義の創成が求められているのかも知れない。
 ぞのいずれにしても、そうでなければ、いくつ新党が結成されても、目先が変わるだけのことである。政局が波瀾含みをくりかえすのみである。
  
 彼らの標榜するものが、たとえ主義や理念を名のっても、形式的な、あるいは外面的なものにすぎないから、それらの政党や政党人が唱える政策はつねに対症療法的である。根底的な対策を、根源から建て直し、立て替える政策はとれない。

 米ソの二極対立時代の遺物である日米安全保障条約も、根底から考え直し、根底から作り替えなければならないはずであるのに、表面的な変更でその場限りの逃げをうとうとする。あげく、何も変えることができなくなる。沖縄の米軍基地問題にそれが集中的に現れている。

 繰り返しになるが、今後いくつ保守系の、あるいは自由主義的な政策を標榜する政党が作られても、それらが、社会を根本的に改めるための基本的なビジョンを持っていない以上、変えることのできるのは、目先の印象だけである。つまりは「気分一新」しかできない。

 真に国民のための、あるいは人民のための深い理念を掲げる政党の出現が望まれる。

リーダーのいない国 [コメントor短評]

 日本という国には、リーダーというものが育たないらしい。

 リーダがいない国では、軍事クーデターが起こりやすい。
 日本では、戦前、そのようなクーデターが起こり、結果、軍部が国政を壟断する最悪の状況を招いた。軍事クーデター自体は失敗に終わっても、それが功を奏して、政財界全般に軍事力への恐怖と期待の大きなうねりをもたらしたことは、日本にとって痛恨のきわみであった。その時、日本のどこにも、リーダーが存在しなかったからである。国民の心を導ける人物が一人もいなかったからである。

 日本の歴史を振り返って、リーダーたる人物がいたのかどうかも「?」である。
 と言っても、「リーダー」とは、民主主義の世界での、人民の統率者のことであるから、戦国大名たちは論外である。もちろん、織田信長も、豊臣秀吉も徳川家康も、リーダーとは言えない。

 とすると、明治以降ということになるか。
 けれども、そこで世論を率いていった人物は見当たらない。人は、やれ西郷隆盛が、やれ福沢諭吉が、やれ板垣退助が、とあれこれ挙げるかも知れないが、それらの中には、世論を導いて何事かをなし遂げた、という人物は一人もない。福沢諭吉らの社会的影響力の大きさ、深さは認め得るものの、それがリーダーたるの資格のすべてではない。
 あるいは護憲運動の先頭に立った咢堂尾崎行雄、あるいは女性解放運動の先頭を走ったらいてう平塚明(ひらつかはる)らが、リーダーの名に値するという人もいるかも知れない。

 リーダーには、世界を変える力が付与される。
 リーダーにはビジョンを開示する能力が備わる。
 リーダーには己が身を顧みない清廉で無私の心が求められ、それを引き受けることのできる人間性がその基底あるいは基体を成す。
 広い視野と深い洞察力をもって、人々の信頼を掴み取り、人々を善導していく意志と意欲と力にあふれた人物。人々の幸福だけが彼の動機である。あるいは人々の不幸からの救済だけが彼の願いである。

 政治家はそのようなリーダーになれるか?
 社会運動家はどうか?
 宗教家はどうか?

 たぶん、政治家はリーダーになれない。
 たぶん、社会運動家もまたリーダーたるの資格をもたないだろう。
 宗教家もそうである。
 宗教運動が社会に広範に影響を及ぼしたのは、十二世紀、十三世紀の中世ヨーロッパと、その後の宗教改革の時代であった。日本では中世鎌倉期の民衆に浸透した新興仏教がそれである。親鸞の浄土真宗はその最右翼に位置する。日本では宗教改革ほど知られてはいないが、中世ヨーロッパにおける、カトリックのフランシスコ会、ドミニコ会などの托鉢兄弟会の運動に収斂していく「清貧運動」が及ぼした影響がある。民衆の生活の中に溶け入り、民衆の生活感を劇的に変えていった宗教運動の成果が、宗教改革の運動を始めその後の社会を規定していった。
 その意味で、日本の親鸞、日蓮、一遍らは、民衆の救済を願ったリーダーであった。中世ヨーロッパでは、イタリアのアシジのフランシスコ、スペインのドミニコなどがビジョンをもって民衆を導いたリーダーである(この同時代性には考えさせるものがあるが、ここではその指摘だけにしておく)。

 第二次世界大戦後、世界を動かすリーダー政治家が存在したと言われる。
 フランスのド・ゴール、西ドイツのアデナウアー。その彼らのビジョンによって、現在のEC(ヨーロッパ共同体)の最初の試みであるヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、続いてヨーロッパ経済共同体が生まれた。
 このことは政治家を主語にした話が、実は逆であることを物語る。
 つまり、政治家がリーダーになるのではなく、リーダーが政治家になる時、世界が変わる、あるいは変わり始める、変わるための契機がつくられる、ということである。
 インドでも同様である。かの偉大なるガンジーの志を継いだリーダーがインドの政治を担った。ネルーである。

 政治家が国家の、国民のリーダーになるのではない。

 国民のリーダーたる人物が、民衆に推されて政治家になるのである。
 そして、そうでなければ、その国民は不幸である。

  日本の国民は不幸である。
  長い、長い年月、リーダー不在の政治が行われているのであるから。

 今、この時、政治家にはリーダは一人もいない。
 ひるがえって、在野にリーダーは隠れているか?
 在野にもいない。

 鳩山民主党には、リーダーたるに足る人物は一人もいない。
 もちろん、その事情は自民党も同じである。いや、民主党よりもっとひどいというべきか。

 自民との谷垣総裁や大島幹事長らが、ことあるごとにさかんに民主党政権の「政治と金」のいびつな関係を攻撃しているが、どこからどうみても、

 「目くそ鼻くそを笑う」

 のたぐいである。

 自民党のひどいところは、自分たちにはリーダーの能力も資格もあると、いまだに誤認していることである。

 それにしても国民たるわれわれはどうすればいいんだろう??
 民主党がだめなら、自民党ってわけにはいかないものね。

 いっそ、社民党あたりに国民的リーダーが出現するのを期待しましょうか? ごくごく淡い期待ですけれど。

 繰り返すが、政治家がリーダーになるのではない。
 リーダーが政治家になるのでなければ、日本にも世界にもよい政治は実現しない。

 今はひたすら、そのような人物が朝日のように昇ってくるのを、じっと待つほかないのかもしれない。今の若い人の中から、真に志有る人物が立ち上がるのを。そしてその前に、軍事クーデターが起こらぬことを一心に願い、祈りつつ。

スノボ国母選手のこと [コメントor短評]

 バンクーバーオリンピック。
 今回も前景気のにぎやかさとは裏腹に、たいした成績は期待できそうにないらしい。トリノは金メダル一個だけだったから、それよりは、個数は増えて、二、三倍にはなるかも知れないけれども。つまり、二、三個くらいは可能性があるんじゃないか、というあたりなのだろう。

 ところで、メダルの期待できない種目にスノボのハーフパイプがある。
 国母和宏選手が、その男子ハーフパイプの代表選手の一人だが、この若者は何をどう勘違いしたか、オリンピック選手団にうまく紛れこんだ、というのが真相のようだ。

 日本からバンクーバーへの旅路の中で、日本選手団の制服を、みんなとは違った風に着ていたことが問題とされたようだが、それは日本のオリンピック委員会やマスコミの過剰反応であったように、ぼくは思っている。あれもまた着こなしである。たぶん、ぎりぎりのところでの彼の自己主張であったろう。その辺までは許容すべきだとぼくは思っていた。

 けれども、その過剰反応に反発したせいか、彼の記者会見がよくなかった。あの応答では、世論の反発必至である。

 きっと、「何様のつもりだ!」と感じた人が多かったろう。
 世の中に甘えているチンピラの風情であった。

 あんな風に斜に構えて反発するなら、オリンピックの出場を辞退するべきであった。

 「辞退します」と言われて大慌てになるのは、日本選手団の役員たちである。あくまでも辞退するという決意が固ければ、困難に直面するのはつまり、日本オリンピック選手団とオリンピック委員会の連中である。橋本聖子団長は真っ青になり、あわてて謝罪会見やら、事態説明会見やらをしたであろう。そして、きっと責任問題で紛糾することであろう。
 その過程で、あの国母選手の着崩しが許容範囲かどうかがあらためて論議されるはずである。
 あるいは、「オリンピック代表選手とは?」という問いかけもあったかも知れない。

 従来からのスケート競技(スピード・フィギュア)や、スキー競技(アルベン・ノルディック)と比べて、スノーボード競技(スノボ)はかなり新しい競技である。その伝統のなさが、こうしたチンピラ選手を産むのは、たとえば、1970年代、80年代の日本のサーファーたちの事情にも見られたことである。世間の常識の外にいることに、彼らの快感があるのかも知れない。
 けれども、サーフィンは一度もオリンピック種目にならなかった。
 つまり、オリンピック種目でなければ、そのスポーツ選手たちが好き勝手に振る舞い、世間の常識から少しぐらいずれていても、「まぁ、どうせチンピラはあんなもの」と言われても、競技を続けることには、大きな問題はなかった。もちろん、高相某のように、覚醒剤に走るというのは、論外である。ここでの問題外である。

 残念ながら、スノボはオリンピック競技に組み込まれてしまった。
 オリンピック競技が「平和の祭典」と言われても、その中身は国別対抗戦である。それぞれが国家を、国家と言ったら言い過ぎならば、その国民を、あるいはその国旗を背にして競技を戦う。国民や国旗を背にする以上、当然ながらチンピラ風の応対は御法度である。よし、「よき国民」の顔ができないのであれば、国民の代表にはなってはなるまいものである。

 だから、「よき国民」の顔ができないと自らに判断した時には、オリンピック代表選手を潔く辞退すべきである。すっぱりと辞退すべきである。それが、自らの個性によりたのむ人間のあるべき態度である。

  その辺は適当にごまかして、自分の顔はとりあえず「よき国民」顔として妥協し、オリンピック代表選手であろうとすることには、ぼくは強い違和感を感ずる。

 いやなら、反発を感ずるなら、潔く、自費で日本に帰ってきてしまうべきである。
 ぼくはそこに一種の爽やかさを感じる。
 それによって、日本選手団に多少の迷惑がかかるにしても、そういう人物を代表選手として派遣することを決めた日本のオリンピック委員会やスポーツ団体の責任が問われるだけのことである。

 その上で、国母選手は国家やスポーツ団体のサポートなしで、孤独の道を歩めばいいのである。世論を敵に回して、自らの独自の道を、孤高に歩めばいいのである。

 もしそのような覚悟もなく、ただむやみに個性を主張し、世論に反発しているというのなら、ほんとうに心の底からただのチンピラである。チンピラが言い過ぎなら、「いい加減な人間」である。こんな人間に競技での好成績は期待できない。どこかに甘えがあるからである。逆に出場停止処分を厳正に行うべきであろう。

 あるいは、橋本聖子団長をはじめとする、選手団の役員連中に「出場辞退だけは勘弁してくれ」と拝み倒されたので、仕方なく出場する、と言うのかも知れない。自分としてはいやいやだけれど、なだめすかされ、競技生命を断つことになるぞとかさんざんに脅されて、きみに期待しているとか「よいしょ」で持ち上げられて、不承不承競技に出るとでも言うのだろうか?

 となると、どっちもどっち。
 大甘の選手団役員、それに輪をかけて大甘の国母和宏選手本人である。 
 こんなのに税金使われたくないなぁ。

労働の空洞化? [コメントor短評]

 トヨタの空前のリコール。
 総数一千万台にものぼるリコールは、これまで聞いたこともない空前絶後の規模である。
 欧米のアクセルペダル問題、新型プリウスのブレーキの問題。
 どちらも、クルマの安全の本質にかかわる。

 これまで死亡事故がなかった(とされているだけかもしれないが)ことは不幸中の幸いである。

 これほどまでの安全の本質にかかわる問題が生じている背景には、労働の質の低下が予想される。

 コスト削減にきりきりと絞り上げてきた労働が、つに「音をあげた」ということであるのかも知れないからである。

 「派遣切り」という言葉に象徴されるのは、労働者が大切にされていないという実態であることは、これまでずっと言われてきていることだが、ついに、大切にされない労働が、安全にかかわる部品の質の低下という形でしっぺ返しを始めたと言うことではないのだろうか。
 
 労働者に「ものを作る喜び」があることが、製品の品質の向上と労働コストの低減という二つの相拮抗する問題の最善の対処法であることを、これまでも実証してきたメーカーがいくつもあったのに、結局、大多数の経営者のやってきたことは、労働の切り刻みであった。長期の身分の保証も必要なく、機械装置に代わる伸縮自在の生産力として、生産コストにおける固定費を低減するのが、派遣労働であり、期間労働であった。

 製造工程の高度なロボット化が進んだ生産現場では、熟練工はそれほど必要がない、というのが経営者の考えとなっていたのであろう。だが、「熟練労働」とは、その製造・工作にとびきりの腕前を有すると言うことだけではない。その生産現場そのものに馴れ親しみ、製造現場に愛着を感じ、その製品の製造に携わることに、安定した変わらぬ喜びと誇りとを感じていること、その積み重ねもまた「熟練労働」の一つの形態である。

 自分の仕事に愛着と誇りを持てない製造現場から、質のよい製品が生まれるはずがない。

 アメリカ製のクルマでは、長く「マンデー・カー」というのがあった。土日の連休明けの月曜日に製造されるクルマにはどこか問題があることが多い、というものであった。土日に遊び疲れ、ぼんやりした状態でクルマをいい加減な気持ちで造るんじゃないか、という危惧である。そしてそれはアメリカの自動車労働者の労働への誇りのなさの裏返しである。

 小泉改革が目指したのは、そのようなアメリカ的労働である。労働者が、自己の製造現場に誇りなど持てなくても、製品に愛着を感じなくても、労働コストの低減によって、生産コストを絞り込む込むことができさえすれば、日本の競争力は永久不変に維持される、という愚かな、あるいは安直な発想である。

 そこには、知恵も労働の尊重もない、
 経営者は、労働コストをかなり自在にできることによって、経営者としての努力を一部放棄したのである。知恵や創意工夫によって、労働の質を維持しながら、あるいはさらにいっそう向上させながら、なおかつ価格的に国際競争力を維持するという熱い経営精神を放棄した結果が、トヨタの大量リコールに象徴的に現れたと言えるのではないか。

 「雇用の維持」という発想は後ろ向きのものである。
 要は「雇用の質の向上」こそ目指されなければならない課題である。

 いかにして労働の質を高めるか。それを維持すること以上に、さらにいっそう高めることによって、国際競争力を維持し、あるいは高めるという発想こそが、現在の経営者にも労働者にも求められている。

 経営者は労働コストの削減に躍起となり、労働者は賃金アップに目の色をかえ、それがため、毎年の繰り返される判で押したような労使交渉に、エネルギーのほとんどが費やされて、もっと肝要な本質的な問題に向き合うことを忘れさせているのが、現在の労使である。

 日本が厳しい国際競争に打ち勝っていくためには、経営者の知恵と工夫、労働への愛と感謝が求められる。労働者にこそ支えられて、今、その企業はかろうじて国際競争裡に立っているのである。いかにその労働に確実に報いることができるかが、経営者に求められる基本の態度である。一方、労働者は、自らの労働の質の向上をこそ目指さねばならない。そのためにこその雇用の保障であり、生産性に見合う賃金の獲得である。

 雇用状態と賃金の安定を獲得するために、労働者は経営者とよく協力し合わねばならない。労使は対峙から相互理解と相互協力へと進むのでなければ、これからの国際経済を生き抜いていくことはできまい。

 その警告として、今回のトヨタのリコール問題は、労使ともに、深刻にまた真摯に受けとめなければならない。

 繰り返すが、今度のトヨタのリコール問題は、経営者が労働コスト削減を安易に考え、実行してきた結果が、品質の劣悪化を招いたと知るべきである。
 そして労働者は、労働の質の維持・向上、あるいは発展にこそ、そのエネルギーを集中させるべきであると、肝に銘ずべきである。

 経営者と労働者は、同じ方向を向いて、品質の向上と国際的な生産性の確保へと向かって、相携えて、これからの競争を戦わねば、どこかにひずみが現れる。それは労働の質の低下、品質の低下となって、最終的にその企業を打撃することになる。その打撃が致命傷になることもあるだろう。

 願わくは、トヨタの今回のリコール問題がトヨタの企業としての致命傷にならないことを、と思うが、それと同時に、国際競争力をどのようにして維持、向上させるかの本質的な問題に立ち向かうための、労使相協力しての模索のきっかけとなってほしいと願うものである。

 これ以上の労働の、労働の質の空洞化は、労使双方において避けなければならないからである。

朝青龍の不幸 [コメントor短評]

 とうとう、朝青龍が引退に追いこまれた。
 やれやれ、と思った人もいるだろう。ほら、あの内館牧子女史とか。

 けれども、朝青龍は不運であった。
 日本で相撲の教育・指導を受けたのが、あの明徳義塾であったからだ。

 明徳義塾と言えば、金沢星陵高校時代の松井秀喜を、四打席連続敬遠したことで知られる。
 勝てばいい、という思想が骨の髄までしみ通っているのが明徳義塾のスポーツ思想である。

 だから、彼、朝青龍は、この学校で、骨の髄まで、「格闘技」としての相撲をたたき込まれた。「勝つ」こと、それだけがすべての相撲だったのである。相撲を「勝つ」ことだけが善であり全である格闘技としてその心に刻みこんでしまえば、どうなるか。その典型が朝青龍であった。しかも最も人生で大切な時期、高校生の心にそれを厳しく刻みこんだのであるから、彼には「強い」と言うこと、「勝つ」と言うことがすべの価値に勝っていた。

 だれよりも「強い」ことのみが、彼にとっての「横綱」であった。「勝ち」続けることだけが「横綱」の資格であった。「品格」なんぞ、教わったことも聞いたこともなかった。「品格」とはどんなものか、「横綱の品位」がどんなものであるか、だれも彼の心にしっかりとすり込まなかったのであるから、彼には「品格」の何であるかを知りようがなかったのである。

 彼はしかし、日本の相撲にとってある種の曲がり角に立っていた。
 その昔、神々にささげる神事から始まった日本の「相撲」あるいは、「相撲道」とも呼ばれる伝統的なモラル・ステータスをこれからも維持していくという伝統の道をひた走るのか、現代のスポーツとして、純粋に格闘技としての道を歩み始めるのか、という岐路に立っていたのである。
 そして、日本人の一部はその格闘技としてのおもしろさを、新たに相撲に見出そうとしたが、しかし、日本人の多くは、「格闘技」としてのおもしろさ、楽しさよりも、「相撲」という日本の文化の一つとして、そのあるべき姿を格闘技以上ものとして、相撲に要求した。その要求がつまり「横綱審議委員会」の意思であった。

 ぼくは「格闘技」でもいいじゃん、と思っていたが、世の中はまだ相撲を単なる格闘技に貶めたくない、と思っていたのであろう。

 だが、現代スポーツは相撲に「格闘技」を見始めている。
 土俵上で彼がガッツポーズをとっても、闘志をむき出しにしても、それにあまり違和感を感じなくなっている。相撲に心底打ち込む若者たちが勝ち負けにこだわり、それを態度や表情に出す、本気で悔しがり、本気で体全体に闘志をみなぎらせる。勝っても負けても口数少なく無表情に近い、ということに、かえって不自然さを感ずる相撲ファンも少なくないはずである。もっと感情を態度や表情に現せ、と。

 その意味で、朝青龍はまさに現代の「格闘技」を生きた「相撲選手」だったと言える。

 そう、相撲「選手」なのである。
 英語では「sumo wrestler(スモ-・レスラー)と言う。「レスラー」なのである。レスリングと同じ格闘技とされる。その格闘技に、髷の大銀杏や行司や弓取りなどの日本の伝統文化が装飾として貼り付けられている。それが現代の相撲の一つの顔である。

 朝青龍は残念ながら、土俵の外の不祥事で引退に追いこまれた。
 くりかえして言うが、このような相撲取りを育てたのが、日本の高校教育と部屋の指導者たちであったことを思うべきである。とくに、勝てばすべてが許される、という思想を植え付けた高校の教育・指導の責任は重い。

 相撲は単なる格闘技ではない、ということが、今後いっそう明確にされるのかどうかはわからないが、朝青龍を格闘技の「プロ・レスラー」に育て上げたことを、現在の相撲界が「失敗だった」と感じているのは確かなようである。「強く」また人格高潔な人物をこそ育てたいというのであれば、格闘技路線は廃棄すべきであろう。

 新たに理事となった貴乃花親方の路線は、たぶん伝統回帰である。
 格闘技路線を走ることへの反省がそこにはある。だが、それはあるいは過渡期の揺れの一つかも知れない。
レスリングなどと同じ地平にある格闘技として進んでいくことは多分これからも避けられまい。要求される「品格」もまた、格闘技としての「品格」へとシフトしていくことになるはずである。

 その過渡期にある相撲の思想的混乱の中で、朝青龍は相撲取りとして生まれ、育ち、それなりの役割を担った。彼をそのように育てた学校には大いに問題があるが、だが、それが日本の相撲に投げかけたものは大きい。相撲における「品格」を厳しく見るのか、単なる格闘技としてのスポーツの「品位」として、見るのか。

 そして、ただの格闘技となれば、土俵上でのガッツポーズも好ましいものとなる。その一方で、プロレスなどと同じように、相撲は衰微していくに違いない。
 
 とはいえ、それは趨勢である。相撲が格闘技として変貌していくことはこれからも避けられないだろう。その変貌を押し止めることができるのか。あるいはまた、押し止めるべきなのか。

 日本の伝統文化が内包している普遍的な問題がそこにはあるのかも知れない。その普遍的な問題として論議される前に、残念ながら朝青龍は墓穴を掘ってしまった。

 本音を言えば、もう少しそこにとどまって、「格闘技」でもいいジャン、という立場をつらぬいてもらってもよかったと思っている。深い議論を掘りおこす前に、彼は立ち去ってしまうことになったからである。
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